「歩いて帰る」

 「歩いて帰る」
 妻がそう言い始めると、「ああ、また始まったな」と、つらい気持ちになる。
 つらいというか、これから始まる地獄のひとときに対して、姿勢をただすような感じだ。そうしなければ、毎回私の心は打ちのめされて、再びはい上がることができない。
 今回のトリガーは、上司宅で催された食事会だった。以前「女子会」と称した医局の女性医師の集まりに妻が呼ばれた際も大変な騒ぎになったが、今回は妻と個人的に(たぶん)親しくしてくれている女性医師の呼びかけがあったこと、出かける前は妻の様子が普段通りだったことから、少し油断していた。
 相変わらず酒の加減を知らぬ妻は、今回の集まりでも大分飲んでいた。徐々に「夫をおいて出ていく」などの発言が始まり、なだめる周囲をよそに、「歩いて帰る」を発動したのだった。
 幸い、30分も歩けば着く程度の距離だったため、ずんずん歩き出す妻を追いかけ、私も雪のチラつく外へ出た。途中妻は私を撒こうとしたのか道を逸れ、妻を見失った私は、タバコをふかしながらぼんやり「消えてしまいたい」とか殊勝なことを考えたりしていた。
 幸い片頭痛が始まったのでそんな殊勝な考えは吹き飛び、とにかく早く家へ帰って鎮痛薬を飲まなければと、自分を奮い立たせることができた。
 また明朝は病棟へ処置へ行かねばならぬ。消えてしまいたい。