中島義道『反〈絆〉論』読了.

 中島義道『反〈絆〉論』読了.

 同じ著者の『ぼくは偏食人間』という本を10年くらい前に読んだことがあった.古本屋でふと目についたのだったと思う.はじめは「食べ物に関する本」だと思って手に取った.何を隠そう私自身が(人に言わせれば)恐ろしいほどの偏食者であり,「ああ,有名な(?)人の中にも偏食な人がいるのか!」と嬉しくなって読み始めたのだった.

 もちろん私の偏食というのは,「なまものダメ(刺身,サラダ,果物など)」「味の分かる野菜がダメ(カレーに入っているクタクタのニンジンは良いが,ホウレンソウのおひたしはダメ,など)」「一度気に入ったら延々と同じものを食べたがる」という,「偏」った「食」ということであるが,『ぼくは偏食人間』はもちろんそんなツマラナイ内容の本ではなく,「偏」屈なオジサンの持論と社会への不満がつらつらと綴られた「不満本」であった.言っていることには大方首肯できて,文句も出てこないのだが,とにかく面倒くさいオッサンだなあというのが感想であった.

 で,その面倒くさいオッサンの本が本屋の新書コーナーで平積みされているのをたまたま見かけたのである.タイトルが『反〈絆〉論』.先の東日本大震災からやたら使われるようになった「何某との絆」に対する強烈な違和感の正体や,その現象や人々の心理に関する考察がなされている.

哲学に疎い我々一般人にも分かりやすく書き始めてくれたような痕跡があるのだが,中盤以降は完全にアッチの世界の筆致になってしまっている.残念ながら私のような無教養人間にカントだとかニーチェだとかの文章を提示されても,「オッサン,急に気でもふれたか」と思ってしまうだけである.

 それでもやっぱりオッサンの主張している内容はもっともであり,最後まで気分よく読み通せてしまった.阿川佐和子『聞く力』『叱られる力』のようなスカスカなアレとは大違いである(別にあれらの本を書いた阿川氏が悪いわけではなく,流行につられてウッカリ読んでしまった私が悪い).

 すなわち,他人は他人であり,どれほど心から同情したとしても,他人と同化することができない以上,例えば「親切な行為」が何らかの影響を及ぼすと考えてはならない.その行為は「行為のための行為」であることにのみ「正しさ」が存在している.親切な行為自体を否定するわけではないが,究極的には上記の内容が主張されている.

 以前から著者が主張している種々の「おせっかい」(=電車のホームで流れる案内放送や,景観を乱すだけのうるさい看板など)は,思考停止してしまっているマジョリティからすれば,なぜそれに文句を言うオッサンがいるのか分からないくらい当たり前の存在であり,今回の〈絆〉騒ぎの中で美談しか聞かれなかったという事実同様,「文句を言うオッサン」は封鎖された言論と同じものなのだろう.学校は楽しくて皆が行きたい場所であるし,昼休みはみんなで一緒にご飯を食べるのが当然だし,休みの日は友達とサッカーをするのが普通なのだから,「そうではない」連中がいることは,報道されないし,そんな連中は「いない」のである.

 「法的に保障された夫婦や家族関係以外の,たとえば不倫相手や同性愛者がパートナーを探しさまよう姿は一切報道されなかった」という内容が文中で何度も繰り返されていたのが印象に残った.そういったマイノリティは普段から隠れるように生きている場合が多いし,インタビューに応じなかったという可能性も高いと思うが,逆に,法的な夫婦の様に無条件で泣き叫びたい,尋ね人の掲示板に大きく貼りだしたい,という希望すら隠し通さなければならないあるいは絵的に報道陣の心を打たなかったとも考えられる.

 話がかなり逸れたが,還暦を過ぎて久しい面倒くさいオッサンは,震災後もひたむきに生きる人たちに心打たれながらも,この状況下で自分がやるべきことをしっかりと認識し,考え続けていたのだ.〈絆〉というぼんやりした耳触りの良い空っぽの言葉を連呼するのではなく(はっきりいってあれは集団自慰でしかなかったと思う),自分のシゴトをする,なぜか考える,彼は哲学者だから,「howでなくwhy」を考え続けるのである.

 医者は患者の苦痛を取り除こうとする,大工は人の住む家を建てる,パン屋は生きるのに必要なパンを焼く,哲学者は生や死,正義や悪,存在について考える.そのいずれにも矜持がある.


 一言でいえば,「いいぞもっとやれ」と思いました.明日も外来なのでもう寝ます.